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先日のカラヴァッジョ展の絵の余韻を楽しんでいる。
「エマオの晩餐」
「法悦のマグダラのマリア」
心に残った絵画のハガキを買い求めて、いつも見えるところに置いてある。
法悦という言葉は普段は使う事がなく、意味を調べてみた。
広辞苑によると、①仏法を聴き、または味わって起こる、この上ない喜び。法喜。②恍惚とするような歓喜の状態。エクスタシー。とあった。
娼婦だったマグダラのマリアがイエスと出会った事で改心し、この上ない喜びを得た事は想像できるが、この絵のマリアの表情が見る者を惹きつけて、自分の信仰はどうであろうか…と迫ってくるのだ。
エマオの晩餐は、復活したイエスと食卓を共にする弟子の姿が描かれているが、最初は弟子たちは復活したイエスに気付かなかった。賛美の祈りを唱えパンを裂き弟子たちに渡した時に気付いたが、もうその時には姿は見えなかった。
イエスの弟子でさえ気付かない。
ペトロは3度もイエスを知らない、と言った。
ユダは銀貨30枚でイエスを売った。
弟子たちのこのような姿は最初からわかるようなものなのにあえて弟子にしたのは何故なのか…
聖書にはわからない事がたくさんある。
でも一つだけわかる事は、本当にイエスさまは憐れみ深く小さな者に寄り添って下さる、ということ。
だからこそマグダラのマリアの改心があったのだろう。
ペトロも3度知らないと言うだろうとイエスに言われ、絶対にそんな事は言わない、と言ったのに知らないと言ってしまった後激しく泣き、その後の人生は伝道に捧げたのだろう。
私は今、神の時の中を生かされている。
取るに足らないものを覚え、憐れんでくださる主にいつも感謝できる者でありたい。
主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 エフェソの信徒への手紙6:10