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奏楽の当番が回ってきた。
だいたい1時間強の礼拝で弾く曲数は9曲。
そのうち毎回決まっている曲は2曲。
後は牧師が賛美歌を決めそれを弾く。
その他、礼拝前奏曲、後奏、献金の曲を奏者が決めなければならない。
先日、東京へ行った時に立ち寄った教会で献金の時にカノンを弾いておられ、パイプオルガンの音色も相まってとても素敵だった。
私も献金の時にカノンを弾きたい、と思った。
今日、教会のオルガンで奏楽の練習をした。
ピアノの先生に(同じ教会に行っている人にピアノを習っている。)「献金の時にカノンを弾きたい。」と言ったら、若い頃に受けたオルガン講習会で有名な曲を礼拝で弾くと心がその曲に向かってしまい礼拝どころではなくなるのであまり良くない、と習った…と良くない返事だった。
はぁ〜、そうなんだ…。
確かに有名な曲が礼拝の途中で弾かれたらお祈りどころではなくなる。
曲に心がいってしまう。
プロテスタントではアベ・マリアも礼拝に用いるのは良くないとされている。
私、何にもわかってないなぁ…
礼拝に相応しい曲を選ばないとならない…
今更ながらに思い知った。
バッハの「主よ人の望みの喜びよ」もすごくいい曲で礼拝の前奏曲に使う人もいるけど、先生は「?」だった。
そうなのかぁ…
知らないって罪なことかもしれない。
確かに、礼拝はある意味特殊である。
個人の演奏会では決してない。
以前、奏楽をしたものの本当にいつも上手く弾くことが出来ず、かえって会衆のみなさんにご迷惑をおかけしているのでは?と牧師に相談したことがあった。
その時に牧師は、「技術だけの奏楽ならば、プロにお金を出して頼むか、機械を使うかという話になるでしょう。でも、礼拝の奏楽は違うのだと思います。上手に弾けるよりも、共に神さまを見上げて礼拝を組み立てている、という事実が大事なのだと思います。それは、プロの演奏者や機械にはありません。」と慰めてくださった。
上手く弾けないのにやめたいとは思わないのはどうしてなんだろう?
ここに何か見えない導きがあると感じている。
すごーく迷った奏楽曲を当日決めた事があった。それが説教にぴったり合っていて、先生にすごく良かったよ、と言われ、自分で決めているようでも神さまが決めてくださっているんだよね、と言っていた言葉が印象に残っている。
見えない何かに導かれている。
畏れをもって歩んでいきたい。
今日も一日お疲れ様でした!