受難日礼拝
今日は午後7時から受難日礼拝があった。
主のご受難を覚えて、静かに祈るはずだったが……
最近よく教会の礼拝に来られる一人の男性が私の前の席に座られた。
尋常じゃない臭いが漂い、礼拝に集中できなかった… 何の臭いだろう? わからないけど、想像するに半年以上お風呂に入ってないか、もしくは着ている服が洗濯されていないか、だろうと思う。 礼拝堂という密室でちょっとキツかった。 こんな時って、やっぱり一言、言ってあげる方が親切なのかな? でも、臭いに関する事は言いにくいし… … 牧師に任せよう。
話が随分それてしまった。
ご存知の通りイエスは磔刑で処せられた。
私たちの罪を贖うために。
2004年に ‘passion’ という映画が公開された。
私の信仰はとても未熟だけれどこの映画を見た時に、イエスを侮辱し、十字架に張付けたのはまさしくこの私なのだ、と涙が止まらなかった。
罪というと法に触れる事ばかりを考えてしまいがちですが、教会で言われる ‘罪’ とは神を喪失した世に生きる事を指します。
神に背いて生きる、とも言えるかもしれません。
決して私の信仰は誇れるものではないですが、神のみを畏れる生活を送りたいと願っています。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
コリントの信徒への手紙 4章18節
今日も一日お疲れ様でした。
どなたの夜も主のお守りのうちにありますように…